新・とおりみち通信

〜 出歩きあるばむ 〜

舞鶴公園の切り株(その2・祈念櫓下)

 
2015年10月 舞鶴公園(福岡市中央区
 
【参考記事】舞鶴公園の切り株(その1)
http://d.hatena.ne.jp/sanchiroku/20151028/1446040228
 
引き続き、舞鶴公園福岡城址の切り株についてです。
 
舞鶴公園の再整備に関連して、かなり以前から、「祈念櫓」のそばのメタセコイアを伐採しようという話が聞こえてきていました(関連フォーラムの資料のようなものを見た覚えがあります)。詳しいことは覚えていないのですが、メタセコイア外来種福岡城の景観にそぐわない、とか、櫓が見えにくい、といった話だったように記憶しています。
 
平和台競技場と鴻臚館跡の間から城址を上ったところにグラウンドとテニスコートがあります。祈念櫓はそこを上から見下ろすような位置にあります。メタセコイアはその祈念櫓の真下からそびえていました。
昨年、ちょうど1年前の伐採工事のときにそのメタセコイアも伐採されたようです。記事その1でも引用した工事告知資料には、次のような写真と説明が載っていました。

出典:www.midorimachi.jp/images/news/141226175650955.pdf
 
私が行ってみた昨年10月には現地は草地になっていました。
 
その手前のテニスコートの横にも、切り株や、何か土を新しくした跡がありました。



 
 
メタセコイアのそびえていた場所です。

 
草が案外深く、切り株を探すのに時間がかかりました。




 
年輪がわかりやすかった株で年輪をざっと数えてみました。精密には数えきれませんでしたが、60ほどありました。
メタセコイアを一般的にどのくらいの樹齢で植樹するのか私は知らないのですが、おおざっぱに考えても、この場所に植えられて50数年は経っていただろうと思います。
 

 
ところで、祈念櫓のほうですが、案内板によると1860年に造られたとのことです。もうすぐ明治になろうという時期で、お城の建造物としてはかなり新しいもののようです。

(上の写真をクリックすると案内板のもう少し大きな写真が見られます)
そして説明によれば、1918年に別の場所に移築されて、その際に大きく改装され、1983年にまたこの場所に戻されたという経緯があったようです。

(上の写真をクリックすると案内札のもう少し大きな写真が見られます)
そうすると、祈念櫓はこの場所に造られて58年ほどでここを離れ、別の姿に造り替えられて65年ほどを別の場所で過ごし、そしてここに再移築されて30年あまり、ということになります。
 
メタセコイアがこの場所に植えられて50数年ぐらいなのであれば、メタセコイアは1950年代後半か60年代、祈念櫓がここを留守にしていた時期にここに植えられたと考えられます。たぶん祈念櫓をここに戻すというような話は当時はなかったのでしょう。
そしてメタセコイアは50数年をここで暮らしてきたわけですから、祈念櫓が造られて移築されていくまでの期間とほぼ同じぐらいの年月を、この場所でその身に刻んでいたことになります。その途中で祈念櫓がここに戻されて、30年ほど一緒に並んで、この場所で時を送ってきたわけです。
 
メタセコイアの場所で写真を撮っていたとき、近くを、祈念櫓を見に来られた様子の方々が何人も通っていきました。メタセコイアがいなくなって、祈念櫓が下から見やすくなったのはなったのでしょう。
その祈念櫓がここにない間、この場所の年月、この場所の歴史をその身に刻んで生きてきた木々の姿は、しかしもう見ることができません。足元をじっと見つめる人が、その失われた歴史の名残を、切り株を、見つけることができるだけです。
 
近くに、木々が伐られた古い跡がありました。
そこからは初々しいいのちが、もういちど歴史を刻もうとしていました。
 
いまここに生きている生き物たちがその身で呈しているそうした歴史に、耳を傾けること心を傾けることも、なされてよいはずだと思います。
 

  

舞鶴公園の切り株(その2・祈念櫓下)
2015年10月 舞鶴公園(福岡市中央区
(文意が通りにくいと思った箇所などを少し書き直しました。2016年2月1日)